「種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」(マルコ4章14節)
ご存じ、「種蒔きのたとえ」です。主イエスはこのたとえを「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4章9節)と結び、私たちが耕された良い心で主のみことばに聞き、豊かな実を結ぶようにと、私たちを招いておられます。
さて改めて、この種が「道端」「土の薄い岩地」「茨の中」「良い地」という、4つの地に蒔かれたことに驚かされます。それは「イスラエル流種蒔き」と説明されますが、それにしても何とも大雑把で、種の無駄遣い、ともいえる蒔き方ではないでしょうか。
昨今、頓に「生産性」が強調され、「コスパ」が測られ、若い世代では「タイパ」(タイムパフォーマンス:時間対効果)が重視されていると聞きます。こうした尺度からしても、およそあり得ない、時代遅れの蒔き方ということになるでしょう。しかしながら、私はそこに、広くみことばの種を蒔く主イエスの愛と情熱、そして宣教の原点を見る思いがするのです。
ラジオ放送伝道は、まさに「種蒔きのたとえ」のごとく、愚直にみことばの種を蒔き続ける、主イエスの宣教を継承する働きであることを覚えます。少子高齢化の波が激しく押し寄せ、さらに震災やコロナを経験する中で、これまでの宣教のあり方を見直し、再考し、転換していくことが求められている時代にあって、私たちは知らず知らずのうちに宣教の原点を忘れ、効果効率を求め、スマートさを追求し、知恵を働かせすぎては、いないでしょうか。神は「宣教のことばの愚かさ」を通して、信じる者を救われるお方です。(Ⅰコリント2章21節)
今日も、ある面、採算度外視で、「道端」にも「土の薄い岩地」にも「茨の中」にも、みことばの種を蒔き続けるラジオ放送伝道の働きを通して、しかしたしかにその種は「良い地」にも落ち、聞く耳をもっておられる方のところにも届けられ、そこから豊かな実を結ぶ方が起こされていくことを信じます。その祝福は、30倍、60倍、100倍というのですから、結果的に、すべてを回収して余りある祝福が備えられている、ということでしょう。
新年度もラジオ放送伝道の祝福を祈りつつ、それぞれに遣わされたところで、主イエスの後に従い、信仰と愛をもって、みことばの種を蒔き続ける私たちでありたいと願います。