今という時代は変化のスピードがとても早く、瞬く間に技術や考え方や流行が移り変わっています。教会も今までと同じままではいられないという過渡期にあります。はたして何を大切にしたら良いのか分からず、目的地を見失ってしまうことがあるかもしれません。そのような時には、原点に立ち帰る必要があるでしょう。
誕生したばかりの教会は、ユダヤ教の権威者たちに目を付けられ、石打の刑にあう人や逮捕される人が出てきました(使徒言行録8章)。これらの出来事によって人々は散らされましたが、福音はエルサレムを越えて広がりました。教会は初めから激動の渦に飲み込まれながらも、イエス様を見つめて歩むことをやめませんでした。イエス様は限られた地域で宣教活動をされ、一人だけで福音を語られました。その時は聞いているだけだった弟子たちは、聖霊が降った時に大胆に御言葉を語る者へと変えられます。そして迫害の時、今までメッセージしていた使徒たちはエルサレムに残り、今度は名も無き弟子たちがそれぞれの場所へと散らされていきました。人の目には危機的状況に見える事柄でも、神様の派遣によって福音は広がっていったのです。
散らされた場所の一つにサマリアという町があります。ユダヤ人とサマリア人は歴史的に確執があり、犬猿の仲でした。チャレンジしなければ出会えない人がいます。心理的な壁もありました。嫌われている人に接するのは怖いことですし、嫌われている側も居心地が悪いものです。しかしそれらの壁を乗り越えて、弟子は神の国の福音を分かち合います。使徒言行録は一貫して、人の出来事ではなく神の栄光が現わされたことを語ります。その人が持っている力や信仰によって、癒しの業や福音の宣教がなされたのではありません。それらはイエス様が成し遂げられたことであり、弟子は師にならい従います。師の御心と御業が、弟子を通して実現されます。イエス様は神と人との壁を乗り越えるようにこの地上に遣わされました。ある人はエルサレム教会とサマリア教会の壁を乗り越えるように遣わされます。そして今日もまた、生きておられるイエス様は弟子たち一人ひとりを「世の光」として、それぞれの学校や職場や家庭へと遣わしておられます。教会の原点はイエス様にあります。隔ての壁を乗り越えて、イエス・キリストの福音が分かち合われていきますように。