「モーセよ、モーセよ」と燃える柴の中から神に語りかけられた時、モーセは80歳でした。自分はもう羊飼いで一生を終えると思っていたであろう彼には、エジプトの同胞を思い、神に問いたいことが山ほどあったでしょう。「神よ、なぜイスラエル人であるというだけで男児が皆殺しにされたのですか。なぜ馬やロバの様に扱われるのですか。神よ、その嘆きと苦しみに、いったい何の意味があるのですか!」と。しかし主は、その苦しみについて、何一つ説明して下さいませんでした。モーセが知るべきは別の事だったからです。「主は言われた、『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し…』(出エジ3:7-8)。
神は、私達の苦しみを、見て、聞いて、知って、憐れんでくださるお方です。その憐れみは天に留まってはおらず、降ってきて、私達の中に形を取られる神です。まさに神は人となって世に降られました。十字架で世を贖い、復活して天に上げられたキリストは、聖霊を注ぎ、教会が誕生し、今私達が御元に招かれている。それはまさに、神の憐れみが天に留まってはいない事の目に見えるしるしです。だから私達は、見て、聞いて、知ってくださる神に祈ります。降って来られ、生きて働かれる神である事を信じているからです。神の憐れみは、天に留まってはおられないのです。
さらに、神はモーセにこう言われます。「さあ今、行きなさい。わたしはあなたをパロのもとに遣わす。わたしの民をエジプトから連れ出すのだ。」え?神が降ってきて救い出すのでは?そうです、確かに神が救い出すのです。モーセが巨大なエジプトに太刀打ちできるはずなどありません。民が解放されるとすれば、それはモーセではなく、神がなさるのです。しかし、それでもなお神は「今、あなたが行きなさい。わたしは必ずあなたと共にいる」と言われます。神が共におられるのならば、モーセが何者であるか、何者でないかは大して重要ではないのです。実際モーセがしたことは、杖でナイルの水を打つ。池の上に杖を伸ばす。杖で土の塵を打つ。戦いの間手を上げている…神に命じられて行ったことは、その程度のことです。しかし、その程度のことを神は用いて、民をエジプトから解放されたのです。神は確かに、エジプトから彼らを救い出されました。しかし、そのために主はモーセの行動を求められました。主は単独で事をなされないで、モーセと共に行動された。「わたしは必ずあなたと共にいる」とはそういうことです。
さあ、神の御前に、「同胞を救い給え」と声を上げて祈りましょう。必要をうったえましょう。見て、聞いて、知ってくださる神はその祈りに必ず応えてくださいます。しかし、忘れてはいけません。祈りに応えてくださる時に、神は私達を用いられるのです。私達は祈る者であると同時に、祈りの答えの一部となるために召されているのです。
