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福音放送 「世の光」ニュース 2020年11月20日発行214号 中国地方放送伝道協力会
「神が取られたので」 広島福音教会牧師 加藤 望
11月1日はキリスト教の暦でAll Saints Day(全聖徒の日)です。11月第一日曜日に召天者記念礼拝を執り行う教会が多いのではないかと思います。今年は丁度1日が日曜日になりましたね。
ところで、召天者記念礼拝では故人の名簿が読み上げられます。聖書でも召天者名簿のようなものが出てきます。先祖たちの記録である系図です。最初の系図は創世記5章にあるアダムの系図ですが、ほとんど皆900歳以上と超高齢です。年齢の数え方が違ったという説もありますが、空気も奇麗で、ストレス・フリーで長生きだったのかぁと想像します。その中で一人、365歳と当時としては超短命の人物がいるのです。アダムから七代目のエノクです。この系図では「そして彼は死んだ」と一人ひとりの最期が記されているのですが、エノクだけは「神が取られたのでいなくなった」というのです(24節)。「信仰によって、エノクは死を経験することなく天に移されました」とヘブライ人への手紙11章5節では解説しています。誰もが恐れる死を経験しなかったなんて、何と羨ましいことでしょう。エノクは信仰深い聖徒だったという訳です。
エノクだけ神さまは特別扱いか…。確かに創世記5章でも、エノクは「神と共に歩み」と2回も繰り返し強調されています。文字通り受け止めて、エノクを信仰の模範とすればいいのでしょう。でも私は少し斜に構えて聖書の記述を解釈したくなる癖があります。900歳が当たり前で、長寿は神の祝福と捉えられていた時代に365歳はあまりにも短命。エノクの息子は969歳と最高齢。エノクの父親も962歳と二番目に高齢です。その間に挟まれたエノクの短い生涯は際立っています。私は思うのです。短命であっても、それは不幸でも神の呪いでもない、神と共に歩んだエノクの人生は皆に覚えられている、神が彼を取られ、天に移されたのだ、と信仰によって家族がエノクの死を受け止めたのではないでしょうか。
私の母は交通事故による脳挫傷で、63歳で天に帰りました。当時、私はアメリカ留学中でしたが、大至急帰国して母の病床に駆け付けました。幸い意識も戻り、意思の疎通ができました。私も入院中の病院を抜け出し、最後に母に会った時、母は天を指さし、笑顔で祈りの姿勢を取りました。その後に母は意識を失い、私の手術を見届けるように天に帰っていったのです。突然の母の死を受け容れるのは本当に辛かったです。でもそんな私を支えたのが「神が取られたのでいなくなった」というエノクの最期を記した聖書の言葉でした。これは正に、短い生涯を終えなければならなかったエノクの死を受容する信仰の言葉、後の時代の信仰者すべてが、愛する人との突然の別れを受容する信仰の言葉なのです。